太陽の日常

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を見てきました。終戦記念日の前日とあってすごい人のいりでしたが、なんとか一時間遅れの整理券を購入して老若男女入り乱れる中観賞。
以下、感想を書きますが、映画の内容に触れる部分が結構、いや、かなりあるので気になる方は見ないほうが良いと思います。








・『天皇ヒロヒト―彼は、悲劇に傷ついた、ひとりの人間』
というキャッチにあるように、淡々と唱和天皇の生活を綴るこの映画には明確な時間軸がなく、まるで天皇ヒロヒトの一日を描くように進んでいく。朝食に始まり、悪夢を見る午睡、マッカーサーとの晩餐―。実際は戦争の終結から人間宣言まで結構な時間があるはずだが、そんな公的な部分はたまに顔を覗かせるだけ。
おそらく、これは意図的にそう撮影されたのだろう。あくまでここで描かれるのは天皇ヒロヒトの公的な部分ではなく、極めて私的な人間ヒロヒトの生活であり一日なのだ。それを気づかされたのは映画中盤、連合国軍からチョコレートを送られるシーンと極地研究所所長と会い侍従長が席を勧めるシーンで笑いが起こったときだった。
隣に座っていた初老の男性が快活に近い声で笑ったとき、知らず知らずのうち肩を張って見ていた自分に気づいた。やはりどこか『天皇』、『戦後』という言葉に惑わされ「居住まいを正してみるべき」という思いがどこかにあったのだろう。それからはなるべく肩を崩して人間ヒロヒトの生活を眺めることにした。
天皇ヒロヒトに会う人間は皆、「戸惑っている」。侍従長、老侍従、皇后、マッカーサー…。それは、現人神という存在と目の前の小柄な中年男とのギャップに戸惑うというよりも、人間ヒロヒトの存在があまりにも超然と軽くあるためだろう。どんな重大命題に対しても天皇の「あっ、そう」「じゃあ」の一言がその重さを取り払い、結局仙人然とした人間ヒロヒトの存在だけが残る。天皇の限りない軽さ。この演技をこなせるイッセー尾形の力量は大変素晴らしいと思う。
劇中、「敗戦」を感じた瞬間があった。米軍の撮影に応じる天皇の姿が映るが、チャップリンに似ているからと「チャーリー!」と声をかけながら撮影しようとする米軍に対してにこやかに笑いながら帽子を取ってみせる天皇の対応。それはまるでピエロのようで(天皇それ自体がもともと巨大なピエロと言えなくもないが)痛ましさを感じてしまった。

・ロシア的映像美
自分はロシアの映像表現やその土台にある精神性について精通しているわけではないが、それでもやはり予告編の中で登場していた空襲のシーンはロシア的な映像美術なんだな、となんとなく感じた。ロシアや東欧などのクレイアニメを見るとその生々しさに驚くことがあるが、まさにそういった生々しさがする悪夢のように描かれる大空襲。まるで童話か何かのようなワンシーン。うねる大魚が小魚を吐き出し、それが町を焼き尽くしていく。こういった「絵」を描けるのはソクーロフ監督ならではなのだろうか。
そして悪夢にうなされる天皇をドア越しに覗き込む侍従長の悩ましげな顔は、どことなくユーリ・ノルシュテイン監督の映画に出てきそうなキャラクターの顔をしていた。こういった「ロシア的な匂い」は見る人が見れば分かるのかもしれない。


・クライマックス
見るものの目を天皇ヒロヒトから人間ヒロヒトへと変換させる様々な効果は、実は監督の罠だったのではないかと思ってしまった最後のシーン。人間ヒロヒトになった彼の前にひょっと顔をのぞかせる天皇という重さ。それまでの流れから一変、自分の立場を思う天皇を子供達の前に連れて行こうとする皇后の姿が印象的な最後だった。