架空史 まとめ4




ゲームでは10都市を支配すると「公位」が皇帝から与えられます。北東、針葉樹林が何本も高くそびえる華北青州、徐州の一部を治めていたA氏は「斉」を、北西、ペルシャとの接点、砂とサバンナが広がる涼州前漢後漢二つの帝都を牛耳るO氏は「周」を、華南、揚子江を背骨代わりにして霧と苔に覆われた揚州、古くから拓けてきた荊州を治めるT嬢は「呉」を、天然の防壁である険しい山々に囲まれ、独自性を誇るN嬢は「蜀」をそれぞれ与えられました。
「号を名乗ることを許される」
これは、黄巾の乱以後、有名無実化のスピードを速めていた後漢にとって、400年続いた王朝の正当性を大きく揺さぶる行動でした。当時、あちこちで起きる武力衝突を全く抑えられない名のみの王朝であった後漢には権力もへったくれもありません。混乱を収束させたのは今や四強として君臨する彼らであり、市井の人々は(国境地帯は別として)「平和になった世の中」を実感しています。それでもまだ四強を創った彼らの時代には、漢はいまだ400年存続した王朝としての権威が残っていました。
しかし、公と国号を授かったという事実は、時間が流れるにつれ漢の優位性、権威をじわじわと蝕んでいきました。賜った諸侯の子孫達はもとより、それぞれの国に仕える家臣も国号を名乗った後に活躍する者が増え始め、自らを拾ってくれた国に恩義は尽くそうとも、後漢に忠誠を尽くそうと考える者は着実に少なくなっていったと考えられます。実感としての「平和」と、それを叶えてくれた長の軍旗にひるがえる国号。もしかしたら、新しい国の予感を最も感じられたのは間近に旗を見ていた民草だったかもしれません。
四強並存を築いた先代から次代へと時が移り、活発な動きが各地で見られるようになりました。しかし、どの前線も一進一退、これといって抜きん出る勢力はなかなか表れませんでした。それは、三国志というゲーム自体の問題と諸侯それぞれの内部事情があったと考えられます。
・武将の数は限られる
三国志」に出てくる人材は限られています。そのため、年代を経るにつれ武将はどんどん死んで行き、最後には誰も武将がいなくなってしまいます。この人材問題は、「三国志」後期に必ず顔を出します。各諸侯も程度の差はあれ、人材問題に悩まされ、そこにそれぞれのお家事情が絡んでいたのが当時の状況でした。
「周」は、西を除いた北東南の三面が他国と接するためそれだけ長大な前線を維持しなければなりません。人口の多い都市を支配下に置いているとは言え、これだけの長さとなるとなかなか自分から打って出ることは難しく、自然と守勢に回らざるを得ない状況です。
「蜀」は蓄財による国力が充実していたにもかかわらず、兵を他国に向けることがあまりありませんでした。N嬢の遺志によるものかどうかはわかりません。ですがもともと蜀という場所自体が各地に比べ、険しい山々に囲まれており、守りやすくはありますが、そこから出て行くのも容易ではない、という事情がその国に住む武将達の気質にも影響を与えていたのかもしれません。
「呉」では、陸遜が大都督となり積極的な攻勢を周に対して行っていました。周との遺恨、一番初めに公を名乗った面目、という部分もあったでしょうが、それが決定的な勝利に結びついていませんでした。これはおそらく、T嬢の側近に地元出身の名門知識人達が名を連ね始めたことと無関係ではなかったかもしれません。地元に根を張るべきとする穏健派が主上の側にあり、若き野望に燃える都督は前線へ。この両者の意見の違いが呉全体の進むべき方法を迷走させていたとしても無理はありません。
「斉」は曹操の一族や武将を多く取り込んでいたため、人材面では四強の中で最も安定した勢力でした。ただ、A氏の長子はA氏に比べ、精彩を放つような痛快さはあまり見られません。ですが、危うさがない、といえば良いでしょうか。彼は着実に事を成すような用兵を見せていました。確実に、着実に。動きは鈍いが負け知らず。それが「斉」に安定感をもたらしていました。
混沌とした状況が続くと思われた矢先、各地に激震が走ります。「周公死去」。O氏の跡を継いだ長子がなくなったのです。司令官の死は前線に動揺を与えました。それに加え、周公は子を成していなかった為、当時一品官だった李厳が第三代周公を跡を継いだことが家臣団に亀裂を生み、ついにO氏が国を起こした西涼近辺で匈族の長が独立を宣言。周は西と東で分裂状態になってしまったのです。
『周、分裂す』
この好機を他の三公が見逃すはずがありません。斉と呉はすぐに兵を周へと向けます。周との関係もこれまでと見限ったのか蜀も周西部、今は匈族が治める涼州へと兵を送ります。二代目周公が亡くなってから、あっという間の出来事でした。四強の一つとして中華にありと言われていた周は、家臣団の分裂によってあっけなく崩壊してしまったのです。(図はそのときの状態)